009であそぼ
終わりよければ
2

 気付いたら自分のベッドの上だった。高く昇った日の光が暖かい。あまりに心地よかったので、アルベルトが夕べ話してくれた「底抜けトーチカ脱出作戦」は夢だったんだろうかと考えた。袖口で顔をこすろうとした時に否応無しに目に入ってきた真っ赤な色で、あれが夢ではないことを悟ったのだが。がっかりしても仕方がない。現実に戻らなければ。腕にややこしく絡まったマフラーを振りほどき、身を起こした時に気が付いた。土足厳禁の僕の部屋に靴の跡が点々と残っている。一人分。解ってはいるが、念のためブーツの踵を合わせてみる。案の定、僕のよりずうっと大きい。

 床に残されているのはジェロニモの靴跡。そしてベッドの上にはブーツを片っぽ履いたまま寝ている自分。そこから導き出される答えはかなり恥ずかしい。酔っ払っていたならまだしも、こういう時は大男の親切心より、叱り飛ばして叩き起こす鉄の張り手のほうが、よっぽどありがたい。
 頬に昇った血を冷やす為にシャワーを浴びようと思った。出て行きがけに中を振り返ると、泥棒に入られたとしか思えない。もともと散らかった部屋に靴跡の飾りがついて完璧になった。そりゃあ僕の気持ちとしても被害届を出したいくらいなのだ。

 防護服になる前に着ていた服はやられたので、新しいシャツを下ろす事にした。この思い付きは悪くない。中に入ってる紙がくしゃくしゃ言い、音につられて僕も鼻を近付ける。糊の匂いがした。この匂いが今日一日、硝煙臭くなることはないのだ。それを考えただけでもとってもいい気分だ。気持ちのよい布に包まれる、これが安心というものに違いない。

 昨日の話が夢ではなかったとすれば当然行くべきなのだ。少し気が重いが医務室へ向かう。しんとしているから誰もいないのかと思ったら、奥の方にギルモア博士の肩が見えた。今尋ねたら作業の邪魔になるだろうか。そっと覗いてみると、時計屋さんみたいな顔をして細かい部品をいじくっている。ちょっとうらやましい。さすがにゼンマイはないけれど、髪の毛みたいに細い繊維を持ち上げているのを見ると、こちらまで息を止めたくなる。僕にもやらせてとは言えないから、いつも見てるだけなんだけれども、やっぱりうらやましい。

「ああっ、動くんじゃない。」
 あらためて見回したが患者はいない。つまり動いちゃいけないのは僕か。
「え? はい。スミマセン。」
「そこらへんを汚い手で触らんでくれ。」
 触るどころか、まだ何にも言っていないのに。動くなと言われたので顔を見に行くこともままならない。診療室のドアを見ながら
「ジェットですか。」
「ああ、イワンが眠ってしまったでな、取りあえずの応急処置じゃよ。」
「そうか。眠っちゃったんですか。それじゃ何も出来ませんよね。大変だなぁ。」
「何を言う。」博士が眼鏡の上からギロリと睨んだ。「完璧なものを用意するには少し時間がかかると言っとるだけじゃろうが。」
「お手伝いしましょうか。」
「いいから君は寝なさい。」
 言葉のあやだけで気を悪くする博士でもないのだが、厳しい顔をしているので、遠巻きにして離れることにした。イワンじゃあるまいし、そうそう寝てられますか。午前11時に「寝なさい」という博士のズレっぷりにも笑うけれども、時間を忘れるくらいの熱心さを考えると頭が下がる。いっそイワンより僕に寝てて欲しいと愚痴られたようにも聞こえるが、そう受け取っては博士のへんくつと同じになってしまうから、深く考えるのはやめにした。


 廊下を歩いているだけでみんなの声が聞こえてくる。そして彼の声は一番最初に耳に入ってくるのだ。初めて会った時、これが俳優というものかと思った。愚痴ってダラダラしている時でさえ、ブリテンの言葉は人の耳をつかんで離さない。僕の声は通ると言われた事もあるけれど、その割にはみんな言う事を聞いてくれない。いつだって途中で口を挟まれてしまうのはどういうことだろう。

「今日は気を付けた方がいいぜ。きっとピリピリしてるだろうからよ。」
 そうそう、今も博士のところに行ったけど怒られちゃったよ。話に加わろうと急ぎ足になったところで、アルベルトの苛ついた声が聞こえた。
「知らねぇな。ジョーの機嫌がどうこうって俺に関係のある話か?」
「そりゃそうなんだけどよ。」
 ソレハボクノコトデスカ? 何でブリテンはそんな変な誤解をしてるんだろう。彼はこういった面での早とちりのない人の筈なのに。そして世の中に僕の機嫌を気にする人間がいるなんて、不思議な気がした。
 間違いだと証明する為に、朗らかな声であいさつしよう。息をすって
「おはよう!」
 我ながら発音、発声ともに満点を与えたい。いつ板に乗ったって大丈夫でしょう、sir?
「ほら、見ろ。」
とブリテンがまたおかしな事を言う。アルベルトは口をゆがめてから、
「めずらしいな。」
と答えた。

「ごめんね。夕べは僕、君が話してる途中なのに寝ちゃったんだね。」
 アルベルトはそのことには何もふれなかった。文句を言うわけでもなく、気にするなということもなく、昨日の話の続きを始めた。内容はほとんど僕が想像したとおりの展開だった。すべては計画通り。居眠りをしてもさして問題のある話ではなかった。つまりはそういう事だったのだ。




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管理人:wren