009であそぼ
終わりよければ
4

「張大人、いるゥ?」
 どこをほっつき歩いてたのか、ようやくフランソワーズが顔を出した。「あら、ジョーいたの」って。まあいいんだけどさ。
「あっ。あたしが選んだの着てるわ。そうでしょ?」
 ネスパ?と聞かれればスサだけれども。正確に言えば、君が選んだシャツのうちのひとつだ。君は背中を向けているから気付かなかっただろうけど、今の一声で部屋の人間が全員、僕の顔を見たんだよ。訂正の為に大きな声であいづちを打たなければならない。
「そう。前に君がみんなに買ってきた時の。」
「よく似合ってる。」
 だからそういうのが困るのに。どうやったら口を塞いでてもらえるんだろう。というか、シャツなんかどうだっていいじゃないか。この子は本当に理解不能だ。今解るのは元気そうだということだけ。それさえ解れば、僕は別にどうでもいいんだけれども。でも、ときどき心底疲れる時がある。
「襟の形がね、二種類あったの。ボタンダウンになってるのと今のと。お店の人はボタンダウンを勧めたんだけど、でも何だかね、違うような気がして。」
 どうでもいい。だからあんまりそこをそんな風にジロジロ見ないでほしい。首元のボタンを上までかけるべきだった。そうしたくって、今腕がむずむずしてる。
「色も白でよかったわね。栗色の髪って合わせる色に関して悩まなくていいから好きよ。」
 ギョッとするような事を言う。だけどすぐに振り返って
「ねぇ、ジェット、あなたのシャツ、オリーブブラウンの。あれ、似合ってよかったわ。」
 すこし安心した。

「ああ、アレね。いい色だよ。」
 ジェットはなんでこんなに頓着しないんだろう。僕もたいがい軽い方だと思うけれども、彼には負ける。彼にかかれば、褒め言葉も事故も一瞬の出来事にしかすぎない。
「シャツよりさ、なぁ、フランソワーズ。」
「なあに?」
「俺と勝負しねぇか。君が勝ったら俺が足を見せてやる。俺が勝ったら君が足を見せる。」
「くだらないわ。」
 くだらない。くだらないけれど、彼は君の為に負傷したんだ。言葉だけでも冗談に乗ってやるくらいの親切はあったっていいんじゃないだろうか。
「そうか? 割と俺の足、面白いぜ。なぁ、ジョー?」
「え? あぁ、うん。」
「ごめんなさい、それなら二人でやっててね。私、忙しいの。」
「二人でやれって、なんだよ、そりゃ。」
 ジェットがぼやいた。
「野郎の足なんか見たかねぇよ。なぁ。」
 ほら。僕がそれを見せられたのを彼はもう忘れている。


 確かにフランソワーズはそれなりに忙しかったようだ。大きなスープ鉢を抱えて食堂に姿を現した。何時間もずっとそれにかかりきりだったそうだ。誰かが「疲れてるのに料理なんか」と言ったが、「だからこそなのよ。解ってもらえないかなぁ」と楽しそうにしている。信じてあげようと思った。
 いや、白状しよう。僕が何も言わなかったのは、何時間もかかる料理に期待する気持ちもあったからなのだ。ところが回ってきた皿を見たらただのスープだった。しかも具の一つも入っていない。出がらしの紅茶をスープ皿に注いだだけみたいだ。でもたまねぎのニオイがするからコンソメスープだと解った。
「これに何時間もかかったのか?」ジェットが言うと
「あら、ひどいのね。大変なのよ。」
「綺麗に澄んだものだ。うまくいったな。」
 アルベルトが目を細めて言った。顔を上げたとたん、目が合った。
「言っとくが、俺は台所に一切入ってないからな。」
 そんなのわかってる。僕が思ったのは…。

 言い訳のようにアルベルトが僕に向かって説明する。スープにおいて、このように綺麗に澄んだ色を出すのは結構難しいことなのだそうだ。その為に肉や野菜に混ぜた生玉子の白味が役に立つ。蛋白質が熱で固まる際、濁りの成分が卵白に固定され、焦がしたりせず温度に注意したりしてうまくやると、肉や野菜が浮き、その下に綺麗に澄み切った部分ができる。それを布で漉す。
「俺が説明するとまるで理科の実験だな。」と苦笑いしてアルベルトは話を終わらせた。
 どういたしまして。たまねぎみたいに食堂の臭いがプンプンする。以上、アルベルト・ハインリヒの生活豆知識でした、と心の中で付け加えた。
 アルベルトのこういった発言はいかがなものか。前にも僕が何か家のことをやらされてた時、やけに細かいこと…忘れたけれど日本で言えばあんこに塩をひとつまみだとかそういったのに近い話だったと思う…で注意されたことがあった。物知りとかそういう話でもない。頭ごなしに言われて腹も立ったし、イメージが壊れるような気がしたので「何でそんな気持ち悪いことを知ってるのか」と聞いたのだ。彼は少しうろたえた後、フフンと笑い「さあな」と言った。怒るかと期待したのにそれもなかった。僕を見て、ただニヤついていた。
 そんなの女に決まってるじゃねぇかと後で仲間に叱られた。馬鹿なことを聞いてはいけない。ブリテンは笑っていたが、僕はアルベルト・ハインリヒの背後に幻の家庭が見えたような気がして、背筋が凍りついたのだった。

 フランソワーズは少し興奮気味に話している。
「うん。何だか不思議と寒かったのよ。あんまり寒いんで、小さい頃、おばあちゃんのうちのそばで迷った時の事思い出しちゃった。兄と二人で雪道で迷って。大したことなかったの、きっと。でも家の近所とは違って慣れてない道だしね。 景色も白くていつもと違って見えたし、上を見上げるとあとからあとから雪が落ちてくるでしょう? 空に吸い込まれるみたいで、アァ、このまま雪に埋もれちゃうんじゃないかしらって思ったわ。」
「で、今回は泥に埋もれるかと思ったわけだ?」ブリテンがまぜっかえした。
「あっ、そうね。ふふふ。そういう連想もあったのかしら。その後のこと、しっかり覚えていないんだけど、気付いたらお兄ちゃんとストーブの前に座ってた。おばあちゃんが身体あたためなさいって言って、コンソメスープを出してくれて…、それが、ものすごくおいしかったのよ。だからみんなを待っている間に決めてたの。絶対コンソメスープ作るぞって。しまいにはコンソメスープのことしか考えなかったわ。」
 あぁ、そういうことか。でもそんなの、ちょっとおかしいよ。僕はそんな時でも味噌汁のことで頭がいっぱいになったりはしないもの。まぁそれは人それぞれなのかもしれないし、…多分まだ気持ちに余裕があったってことなのだろうけれど。
「俺だったらブランデーを思い付くね。よりによって、手間がかかるもん思い付いちまったもんだ。」
「ホントよね。フフフフ。せめてホットココアくらいにしとけばよかった。」楽しそうに笑う彼女の声が何故か癇にさわった。
 だいたいが僕はこのコンソメスープってのが解らない。透き通ってるからってどうなんだ? 濁ったのがダメならポタージュの立場はどうなる? そんな事を考えていたら、シェークスピア俳優が食卓にふさわしくないお下品な冗談を言った。当然、張々湖が百倍の言葉で言い返す。消化吸収の良さだとか、栄養素のことだとか、野菜のエキスがどうとか、漢方がどうのだとか。具体的な根拠を示すところなんて、立派なコンソメ弁護人だ。
「ナイチンゲールも回復期の患者に、コンソメスープを勧めてるアルよ。」
「だが病人本人が時間をかけて作るものでもあるまい。」アルベルトコンソメ検察官の言うことももっともだ。彼の追及をかわすのは誰だ?
「あら、それ私の事?」フランが10秒くらい遅れたタイミングで反応する。この子、やっぱり何かおかしい。
「悪いなフランソワーズ。病人はオレだ。なんなら足見るかい?」
「やめろ。汚いのは排泄物の話題だけで充分だ。」
 みんなが一斉にうなづいたのがちょっと面白くて笑った。
「おうい、どこかの幼稚園児がひとり混じってねぇか。」
とブリテンが言った。僕はそんなくだらないことで笑ったんじゃない。第一、その話を持ち出したのは君のほうじゃないか。

 みんなに比べれば、幼稚園児並みの頭だったかも知れないけれど、仲間のおかげで僕は日に日に賢くなってゆく。シェークスピアが決してお上品でない事も学んだし、今日はアルベルトと張々湖の話でコンソメスープについての知識を得ることが出来た。でも同じ色なら僕はフカヒレスープのほうが好きだな。これ、何か味がしないし。
「味がしねぇなぁ、このスープ。」ジェットが言った。
「フランソワーズ! さっき流しに捨ててたボールの中味、まさかと思ったアルけど、冷凍庫から出して置いといたブイヨンじゃないアルネ?」
「あっ!……覚えてないわ。私、何やってたのかしら。」
「アイヤー! ブイヨンのはいってないコンソメスープなんて聞いた事ないアルヨ!」
「そうねぇ、あんなに時間かけて煮込んだのに。」
「いいさ、味が足りなければ各自でつければいいだけだ。」アルベルトはさっさと塩を手に取った。「何にしたって、オレたちゃそういう方針だろ?」検察官が弁護人に早変わりだ。
「もちろんだよ。」ジェットが何もなかったように答えた。
「ちげぇねぇ。で、俺にはしょうゆとカツオ節を取ってくれ。」
 ブリテンの言葉をきっかけに、たちまち食卓の上が調味料の行き来で大騒ぎになる。ピュンマがカレ−粉を手にしたのが見つかり、張々湖にひどく怒られている。ピュンマも折れるような人間じゃないから「カレーを入れようがマヨネーズを入れようが自分の皿なんだから個人の自由だ」と言い返している。ま、ね。正論なんだけど…。僕はしばらく大人しくしていることに決めた。

「ねぇ、ジョーはどう思う?」

 キタ! と思った。油断して目を合わせてしまったのがいけなかったのだ。気になったからって、彼女の顔を見るんじゃなかった。
 青い目がまっすぐにこっちを向いて離れようとはしない。どうしてこの綺麗なお嬢さんは僕にばっか話し掛けるんだろう。アルベルトの言葉だけでは満足出来ないのだろうか。せっかくの彼のフォローを何だと思ってるんだろうか。じゃなかったら、たまにはピュンマに「このスープどう?」とかニッコリ話しかけてみることを思いつくべきだ。この苦しみを分かちあえ、黒き肌の友人よ。そうしたら僕も君を同士ピュンマと呼ぼう。苦しむどころか、慣れてないもんだから喜んじゃって大変だろうけど。目を輝かせてたまねぎの原産地の話からじっくり説明してくれるだろう。みんなの話は僕よりずっとためになる。あの子だってそう思ってるくせに。
 ことによると彼女は僕がウソをつくのを承知していて、わざと聞いてくるのかも知れない。結局そういう人選だ。戦闘中僕の背中に張り付くのだって、理由は決まってる。女ってのはズルい。

「おいしいよ。」

 僕のウソはしらじらしかったようだ。失敗した。フランソワーズが考えるような顔になった。ピントがズレた目をしている。ぼんやりした頭でこれ以上考えることはない。うそを本当にする為に僕は皿にスープをつぎ足すことにした。
「そうね、でも引っ込めたほうがいいのかも。」
 彼女が鉢を動かしたせいで手元が狂った。まだ半分以上残っていた皿のなかのスープがバシャリと跳ねた。なまぬるい温度が肌に貼り付く。あ、この感触。一週間前、僕の腕の中で死んだ男の。だがその顔立ちを思い出す前に、フランソワーズの間の抜けた声が僕を食卓に呼び戻した。
「あっ。ごめんなさい。火傷しなかった?」
 火傷なんかする筈ないじゃないか。僕を一体誰だと思ってるのさ。さっきっから君は調子っぱずれなことばかり言って。
「待ってね。すぐ拭くから。」
 無邪気で優しい手が伸びてくる。傷ひとつない、しなやかな指だ。爪の中に泥が詰まっている訳でもない。拭くって? つまり僕に触れるのか? いや、今はダメだ。耐えられない。ビックリして後退った拍子に今度は本格的に皿をひっくりかえしてしまった。
 白いシャツのおなかのところがイヤな色に染まって、何もかもがたまねぎくさくなった。この服、もう着れない。焦げるとかやむを得ない理由でなく、こんなくっだらないことで台無しになるなんて。気付いたら日本語で怒鳴っていた。
「そんなにたまねぎスープが好きでたまんないんだったら、ずうっとここで大人しくたまねぎ煮てればよかったんだ!」

「俺の翻訳機おかしくなったか?」とブリテンが言い、「大丈夫、俺にも意味不明だし」とピュンマが答えたのが聞こえた。ええい、英語で説明してやらなきゃいけないのか。
 僕の翻訳機のほうこそ、イカレたらしい。you とか vous とか tu とか君とかが文章の中に全部ごちゃまぜになった。最悪「お前」は混じらなかったと思う。正直、何を言ったのか自分でも覚えていないから断言はできないけれど。でもさっさとフランスへ帰れだの、言ったような気がする。

 そしてまた部屋がシンとした。僕が何かするとこうだ。言葉さえ出てこない程、驚き呆れ果てた顔でみんなが009を見る。無理もない。いつもヘマばかりなんだから。今の仕事だって、ジェットがひどい怪我をしたし。あれは全部僕のせいだ。僕がちゃんと見越していて、人数を増やしておけば、君達は苦労しなくて済んだのに。でもどうしようもないだろう。そんなに人がいるとは思わなかったんだもの。完全な予測なんか出来ないよ。僕達は003がいない時に暗闇に押し込められ、008がいない時に洪水に襲われる。001はいつだって肝心な時に眠っちゃうし。そんなの僕には計算できないもの。でも今回はもすこしどうにかなった筈だ。ジェロニモの作業を早めに切り上げさせておけば、君の方に彼を回すことだって出来たんだ。あの時、少し手間取って、でも、005がいるから楽勝なんて考えて。頑張れば自分にも出来ることを人にまかせておいて、何が楽勝さ。鼻歌なんか歌ってたような気もする。僕は馬鹿だ。何もかも僕が悪いのに、誰もなんにも言わない。博士は自分が徹夜してるくせに、僕に寝なさいなんて言うし。君は相当怖い思いをした筈なのに、スープおいしい? なんて聞いてくる。だって、平気じゃないんだろ? 僕がスープ好きだろうが、嫌いだろうが、そんな事、君が気にする必要ないのに。そんな価値もないんだ。そうだ。僕はたまねぎくらいの価値もない男だ。なのにどうして話しかけてくるのさ。ジョー、ジョー、ジョー。兄さん、兄さん、兄さん。一緒くたにしちゃだめだ。君の兄さんは君をおばあちゃんのうちに届けられたかも知れないけど、僕にそれを期待されても困る。だって出来ないんだもの。僕は君を構うには力不足なんだ。荷が重すぎるんだってば。

 でももう言葉は出てこなかった。フランソワーズの前に立っているのも嫌だった。フランス人の口が言われたまんまでおさまる筈がない。反論が始まる前に僕は部屋を、いや、この家を出てゆくんだ。
「待って、ジョー…」
 もう充分だ。その名前は聞き飽きた。それ以上その単語を繰りかえすんだったら、なんなら僕は改名したっていい。ジミーでもジョンでも…いや、それはジャンに似てるからやだけど。とにかくもう君のことは考えたくない。実際、顔も見たくない。

 見たくないと思ったとたんに本当に目の前が暗くなった。何だ、これは天罰か?


 ジェロニモの唸るような謝罪の声が聞こえたので、わざとではないのがわかった。というか、多分僕の方から彼に突っ込んで行ったんだと思う。彼が手に持っていた豆料理は大丈夫だったろうか。あれはみんなの昼食の筈だ。どうしよう。悪い事しちゃった。いや、考えてみよう。鍋に顔を突っ込みそうになった時、それがフット消え、その下から、あのバカデカイ足が飛び出してきた。あっ犯人の靴跡だと思った時にはもう吹っ飛ばされて…。僕が最後に見た映像は壁だったし、聞こえたのは固くてにぶい音だけだったから、うん。鍋のひっくりかえる音はしなかった。だからみんなの昼食があのしけたコンソメスープだけってことにはならないだろう。とりあえず最悪の結果ではないのだ。頭を打ったのは僕だけだ。チクショウ。あの靴、部屋だけじゃ飽き足らず、僕のほっぺたにまで印をつけやがった。

「気にしないで」と言おうと思い、目を開けたら、星の中にフランソワーズののんびりした笑顔があって、チカチカした。
「だから言ったでしょ。気を付けてって。さっきから何にも見てないんだもの。」
 うん、何も見えない。見えるのは星だけだ。
「昨日目を回してぶっ倒れてから12時間とたってないぜ、よっぽど床が好きなんだな。」
 アルベルトがジェットに暴露している声だ。あいつ、今になって。しかもこんなところで。聞こえちゃうじゃないか。
 フランソワーズが追い討ちをかけるように僕の顔を覗き込んだ。

「私の目と耳はやっぱり必要だと思わない?」

 皆の笑い声が大きくなり、なんだかとても恥ずかしくなったので、それで僕はもうしばらく目をつぶってることに決めたんだ。


おわり
[04.3.7]


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管理人:wren